小さな学習塾「わたる」~子ども達の自立と向き合う~

ADHDやLD、自閉症スペクトラム、アスペルガー等、生来より何らかの学びづらさを持つ子ども達の学習・生活支援を行う小さな学び舎「わたる」。その塾を経営するきつねが日々のことをぽつぽつ呟くブログです。

LD=Learning Differences(学習方法の違い)

ローダ・カミングス&ゲーリー・フィッシャー著「LDの子のためのガイドブック 学校と勉強がたのしくなる本」(大月書店)は、子ども達のために書かれた本です。もちろん、学校の先生や親御さんが読んでも十分役立つ内容ですが、本文は終始、子ども達が読んでくれることを意識し、優しい語り調で、且つ、平易な言葉で記してあります。文字が大きく、項目ごとにきっぱりあっさり「困った時の対処法」を綴ってくれていることも、スイスイ読んでいくための助けとなっています。


作者さん方は冒頭の挨拶文で、この本ではLDのことを「学習の障害(Learning Disability)」ではなく、「学習方法の違い(Learning Differences)」として捉えると言っています。


〝LDは、知能の遅れではありません。頭が悪いわけでもなければ、なまけものでもないのです。ましてや、大人になっても仕事ができない、なんてこともないのです。〟


世の大勢の人たちだって、みんな自分に合った、自分なりの学びやすさを見つけて、その手段を用いて学習しているのだから、きみもきみのやり方を見つけてそれを身につけていけば、もっとラクに勉強できるし、友だちともうまくやれるし、学校ですごす時間もより楽しくなるはずだよ、と。


本著は、自分の「できなさ」「うまくいかなさ」に悩んでいる子が、「よし、じゃあこの本を読んでみようかな?」という気にさせるような励まし方をしてくれています(もっとも読みの苦手なお子さんには、やはり文章量が多い方と思いますから、先生なり親御さんが代わりに読み聞かせてあげる必要があるでしょう。本文のほとんどは、読みが苦手でも拾い読みできる仕様と思いますが)。


みんな自分なりの方法で学んでいるって本当そうですよね。そもそも「物の覚え方」だって、「時間の管理の仕方」だって、人によってぜんぜん違う。やることがたくさんあったとして、その優先順位の付け方も人それぞれ。


計算の仕方ひとつとっても、例えば私は学校でよくやる「さくらんぼ算」が苦手で、何であんな訳の分からない解き方をしなきゃならないんだ?と、常に?マークな人です。作業的には、自分も10の合成の知識を使って考えているのでさくらんぼ算と同じじゃん、と言えなくもないのですが…。
学校で「先生がさくらんぼ書かないとダメだ、〇にしないって言った」とか半べそかきながらいやいやプリントやっている子どもさんに出会ってしまうと、うーんと唸ってしまう…。何でそんな何が何でもさくらんぼ書かないとダメなの?って…。いや最初が肝心だから、そういう「丁寧な作業の癖をつける」って意図もあるのだろうし、それは分かる!分かります~!ともなるのですが…。でもそれで算数が嫌いになられたら…とも思ってしまう。


そういえば本著で、「何から手をつけて良いか分からない」子のために、「やることリストをつくろう」という項目があって、そのリストを作ったら、「いちばんむずかしいことからやろう」、なぜなら、いちばんはじめが最もエネルギーがあって目も冴えていて元気な時だから…とあって、そっかぁ~、でも私は逆だと思ってしまいました(笑)。


私も「やることリスト」は高校生くらいから好きでよく作る方なのですが、これの何が楽しいって、そのやることを終えた時に、赤線でピッと横線を引くのが好きなのですよ。昨日の日記の「モップ」じゃないですけど、すんごい快感!ってなるんですその瞬間(また変な人だと思われる…?)。
でももしこの本の言う通り、終わらせるのが1番大変そうな難しい課題から取りかかると、その赤線はなかなか引けない…そしてやる気をなくす。だから私は、いつも最初にさくっと消せるような簡単な課題から入って、そこからモチベーションを上げていくスタイルなのです。それが私に合ったやり方。


この本がダメだと言っているのではなく、この本では他にも様々な「こういうことで困っているの?ならこうしたらどう?」という優しい、無理のない提案がたくさん成されているので、それを読んだらとりあえずやってみて、「でも、自分だったら、こういう風にした方がもっといいかも!」って、自分自身でやり方をどんどん改良していったらいいと思うのです。
何も全部が全部、本の言う通りやる必要はない。そうではなくて、本はあくまでもヒント教材に過ぎないわけで、この本自身が「みんな学び方は違う」と言っている通り、ここで紹介されている方法も、合う人もいれば、合わない人もいるのは当然なわけです。
でも「どうしたら良いか、何のアイディアもない!途方に暮れている!」…という人には、とっても良い教材なので、是非一通り目を通して欲しいなぁという話でした。


「勉強がわかるようになる6つの方法」の項目にも、まずは「とまって、聞いて、見て、考えよう」という提案があるのですが、「それができないから苦労してるのよ~!」という各方面の悲鳴が聞こえてきそうだと思いつつ…。
さらに、書字の練習や言葉の覚え方あたりも、特別支援の勉強をされている先生には「知ってる~もう知ってる、定番~!」となるだろうと思いつつ…(笑)。
でも、意外に、「知っているけど、実際に(現場で)使っていない」こともあると思うので。やっぱり一読して損はないかな。お勧めします(すぐ読めちゃいますし)。


本って、どんなに丁寧に、相手を思いやって書いてみても、「そんなこと知ってる!でも、そんなことできない!それができたら苦労しない!」な部分もどうしてもあるんですよね。現場と乖離しているというか。


それでも、私はこういった本はもっとたくさん世に出たら良いのにな~と思いますし、ひとりでも多くの、別段LDとは無縁の方の目にもとまって、そして手に取って読んでもらえたらいいのに…と願わずにはいられません。
だって、同じ社会で生きている人のことを、「何であいつはこんなこともできないんだ?」で終わってしまうのはあまりにも残念で寂しいことだから。少しの理解と少しの手助けで、助けられた側の、他の人にはない能力が見事に発揮できる場ってきっといっぱいあって、それは増やしていけるはずだから。


みんなちがって、みんないいって言ったの、金子みすゞさんでしたっけ…。あの言葉、好きだなあ。周りがもっとそういう空気になっていったら、今過ごしにくさを感じていて、悩んだり苦しんでいる子たちも、投げやりになったり、暴れたりしないで、それこそ「止まって、聞いて、見て、考える」余裕を持つことができるのじゃないかな?と思います。


挨拶したら負け?

以前、研修に行かせてもらっていた病院で、何としても自分から挨拶しない先生方がいました。診察室のすぐ隣の部屋には、検査やカウンセリングをする臨床心理士さん達の控え場所があるので、朝、私がそこへ行くと、絶対どなたかとは顔を合わせますし、そしたら「おはようございます」と挨拶します。すると向こうも「あ、おはようございまーす」と返してくれます。普通の光景です。


しかし1年通って、この「先生方」と「心理士さん方」が挨拶し合っているシーンは、ついぞ見ることはありませんでした。毎日行っているわけではないので、私の見ていないところでしていたかも…その可能性もなくはないですが、単純に「忙しい」ということを差し引いても、普通にちょっと言葉を交わす場面にも遭遇しなかったので、「こりゃきっと相当仲が悪いんだな」とは、あの場に少しでも身を置いた人間なら、何かしらは感じ取れます(実際「最悪」だという証言も複数あり・笑)。


それにしても、いくら何かがあったのだとしても、挨拶しないってどういうこと?昔から「挨拶は人間関係の基本」と教わって生きてきたので、そういう状況にぶち当たるとモヤモヤします。仮に向こうから返ってこなくても、とりあえず自分だけでもしとこ?むしろ相手は関係ない、自分はする人間だからするってスタンスでいこ?ってなる。


…でも、あの場にたった1年しかいなかった私でも、何となく分かる。心理士さん達はきっと心が折れたのだろうと。本当にあの先生方が嫌いだから、「おはようございます」のたった一言でも、発することに激しい抵抗があったのだろうと。
だってあの先生方に挨拶しても、「ああ」とか「うん」しか返ってこないし。元々の性格が横柄だし。医者以外の職業を見下していたし。むしろ、先生様が「ああ」でも返してやるんだから感謝しろってな感じだったし。私は勉強させてもらっている身でしたから腰低く(笑)挨拶しましたけど、利害関係なかったらどうかな~、途中で挨拶するの放棄したかもな~って思わないでもなかった。だから、心理士さんたちの気持ちは分かる。それでもシカトはダメだけど。


ただそういう「無礼だな~」と思う人って、世の中に割といますよね…。だから仕方がないってことにはならないですけど、そういう人が結構いることは事実。これが会社の上司にいたとしたらもう災害レベルですわ。人に挨拶だけさせて自分は返さない、何せ自分は「偉い」と(勝手に)思っているので、「だから俺は挨拶しなくていい」がその人の一般常識。
で、そういう人たちって逆に、目の前に一国の大統領とか首相とか天皇陛下が現れたら、自分から頭を下げると思う。アントニオ猪木みたいな、屈強のプロレスラーにも挨拶するかも。何故って、そういう人は自分より「強いか弱いか」の視点で生きているというか、もっと言えば、自分より地位(権力)があるか否か、お金持ちか否か、物理的パワーがあるか否か(腕っ節の強さ)という、分かりやすい指標で相手を評価し「偉ぶるべきか従うべきか」を判断する傾向にある(と思う)から…。
それって一見、人としてどうかと思わないでもないですが、弱肉強食の世界で生きる生物としては、本能的な生き方をしていると言えないこともない…のか?
あ、勿論、「偉い人」でもきちんと美しく挨拶される方がたくさんいることも知っています、念のため。


ところでですね。今日は「そういう人たち」のことを書きたいわけではないのです。挨拶しても返さない、非常識だなこのやろう!こんな大人には、みんななっちゃダメだよ?…って、そういうことが言いたいわけではなくて(それも言いたいけど)。


別に自分のことを偉いとも何とも思っていないし、むしろ、どちらかと言うと自分は何てダメな奴なんだと思っている節があるけれど、「挨拶できない子」の話がしたいなと。


これまた私が過去付き合ってきた子の話になるのですけど、挨拶が出来ない子がいまして。親御さんにどんなに促されても、そうされればされるほど余計にそっぽを向き、唇を固く引き結んで意地でも挨拶しないぞ!って感じの子。ここで一言「おはよう」を言おうものなら、その場で命を取られるみたいな、いっそ決死の想いすら感じたりして…。


まぁその子は挨拶も何も、終始口をきかない子だったので、最初は「場面緘黙」なのかな?と思ったのですが、互いの存在に慣れたらべらべら話すようになり、そこで「俺は話すのが苦手なんだ」「だから話すことが面倒になって、もういいやってなる」まで言語化できました。また、話すことは苦手だけど「友達と上手く話せるようになりたい」と率先して練習もしたがるし、「何が何でも話さない」の意思を示すのは挨拶の時だけなのです。
そう、楽しくおしゃべりできて、自分の弱いところもきちんと認めて話ができるのに、「挨拶」だけできない。だから大分打ち解けて来た頃に、最初の時も言ったけど、こっちがこんにちはって言ったらこんにちはって返して欲しいし、なるべくならさよならも言って欲しいよと希望を伝えたんですね。


そしたら、「無理」って言うんです。何故と聞き返しても「できない」の一点張り。ええぇ何で?意味が分からない、「こんにちは」「さよなら」を口にすることが何で無理?だってこっちが言っているのに、返さないでシカトってさ、やっぱり良くないと思うんだよ、と。なるべくやんわり伝えたつもりなのですが、「なら先生も挨拶しなくていいよ」と(笑)。いやいやいや…って感じでしょう?
で、何か挨拶に恨みでもあるの?挨拶したことでよっぽど恐ろしい目に遭ったとか?と何気なく聞いた時、本人はふっと黙りこみました。


とはいえ、当人も頭では、「シカトは良くない」という道徳観があるらしく、特別に「挨拶しなきゃ」と意識しないでいる時なんかは、何気なく「じゃーね」を言った私に、とっさにというか反射的に手を挙げてふりふりしたり、目をこちらに向けて頷くとか、そういうのはできるようになりました。
でも、親御さんがいる時は絶対しないし、ましてや親御さんが、「ほら、先生がさよならだって!」とか言った日にゃ~絶対やらない(笑)。とりあえず、促されたら絶対やらないですよね、「言ったら負け」というような謎の負けん気が発動されて…。本当に一体何があったんだ、彼にとって呪いの言葉なのか挨拶は?…まぁそう思うと、私も無理には挨拶しろしろ言うのはやめました(自分からの挨拶はやめませんが)。


結局、今に至るまでその理由は分かりません。心理の勉強したら子どもの気持ちがみんな手に取るように分かるなんて……そんなこと、あるわけないです(汗)。
ただやっぱり、「何かがあったんだろうな」と、少なくともその子には感じました。挨拶をしたことで、本人にしてみたら強烈にショックだったか、嫌な思いをした経験があったのじゃないかと。親に促されてする(=命令に従う)ことに抵抗感があり、だからそのしつこく言われ過ぎた事柄(=挨拶しなさい)に拒否が強い、というのもあるかなぁ…と思いつつ。
でも、何か事情があるからこの子は挨拶しなくていいって、周りの人間全部が理解してくれるわけじゃないから…。必要な時には、最低限の挨拶や礼ができるようになって欲しいなと思うと、きっと今後も、私は彼のような子には挨拶し続けるだろうし、時々は「返してよ~おいシカトかよ!」なんて言いながら、挨拶を促すと思います。


それにね、何となくその子も、手を振れた時とか相槌を打てた時は嬉しそうだったから。「あ、やれたよ」って顔をしていたから。やっぱり大人の側が、できないことに眉をひそめたりしないで、子どもがどういうリアクションでも私は挨拶するよ!ってスタンスでいなきゃいけないなって思います。
シカトされる方の心的ダメージは、そりゃ大きいですけどね。


せんたくかあちゃん

天気予報はもちろん可能な限りチェックしますが、その日の天気って空を見上げれば大体の予想はつきますよね。曇っていれば「雨降りそう」とか、青空がカーッと広がっていれば「今日は良い天気だ」…って、まぁその程度の予想なのですが。大体当たる。


で、今日は明らか曇っていました。空が灰色。でも、かすか~に空の上の上の方が晴れている気がして、「大丈夫だろう」と洗濯物を干してきましたら…全然大丈夫じゃありませんでした。さきほどまでドシャドシャという音が聞こえるほどの激しい雨。今はやんでいるようですし、九州の大雨被害に比べたら洗濯物なんてどうでもいいこと過ぎるのでダメージはないです。早く九州の雨がやんで欲しい…。


気持ちも塞ぎがちなので、今日は洗濯物繋がりで1冊の絵本を紹介しようと思います。このブログでは絵本の紹介もすると書いたし、「私の好きな絵本ランキングベスト10!」などやりたいなと考えたのですが、そもそもたった10冊を選ぶのが至難の業過ぎて…。当面は気に入った絵本を1冊1冊紹介するスタイルでいこうと思います。


で、洗濯物の絵本と言えば「せんたくかあちゃん」(福音館書店)、これでしょう!!
さとうわきこさんの作絵で、1978年(!)に月刊「こどものとも」から発行され、1982年に「こどものとも傑作集」にて第1刷が刊行。そして2019年時点で第91刷…!まさにベストセラー、時代を超えてなお愛される絵本ということですね。現代では便利過ぎる洗濯機がごまんとあるじゃんとか、今どき洗濯板とたらいでもって洗濯する日本人なんているの?とか、この絵本ではどうでも良いことです。多分、この絵本を読んでそういうツッコミする子もいない気がします。ふーん、そうやって洗濯するんだくらいで、特に疑問も感じないのでは?


何故って、とにかく「せんたくかあちゃん」の勢いがスゴイ。問答無用感がすさまじい。


かあちゃんはたらいに洗濯物を放り込んで(毎日カーテン洗うとか神の所業じゃないか…)、洗濯板でゴシゴシするのが大好物。そのために生きていると言っても過言ではない洗濯マニア。洗えるなら、服じゃなくても構わない、犬でも猫でも、自分の子ども達でも、何なら犬が食べようとしていたソーセージだって洗っちゃう。


折角食べようと思っていたソーセージを石けんで洗われるなんて嫌だし(笑)、そもそも自分たちも洗われたくないから、みんな必死に逃げるのですが、かあちゃんを前に逃げられる者なんて誰1人いないわけです。かあちゃんは無敵なんです。ここで、「せんたくかあさん」だったら、或いは逃げ切れたかもしれない。「かあちゃん」相手だから負けたんじゃないか?そんな謎理論に埋没してしまうほどに、この「せんたくかあちゃん」の威力たるや、絵本を前にして、読み手まで圧倒されるほどです。


あまりネタバレしても読む楽しみがなくなるので紹介と言いながら内容にはこれ以上踏み込みませんが、中盤の事件からオチに至るまで、ホント洒落ていて最高です。そして、もしもこんな「かあちゃん」がご近所にでもいたら、きっと世の、子育てに悩んで悶々としているお母さん方は絶対的に救われますね。かあちゃんの前では、どんな悩みもスカッと吹っ飛ぶんですもん。仮に吹っ飛ばなかったら、間違いなく、このかあちゃんによって頭からたらいに放り込まれてゴシゴシ洗われて、曇りきった思考も何もかも全部ピカピカにされて気持ちもドピーカンにされちゃいます。そんな「スッキリ爽快感」がこの絵本にはあるのです。


しつこいようですが、私がハマッた「使うと気持ち良いモップ」(笑)。これに似た効果が、この絵本にもあると感じます。ピカピカとか、ゴシゴシとか、そういうものを全面に感じ取ることができる描写そのものが、実際に自分がモップを使って得た快感と似た触感の部分(?)を心地よく刺激するのではないかと思います(何だそりゃ)←自分ツッコミ


片付けが嫌いとか、お風呂が嫌いとか、もしもそういうお子さんがいたら、この「せんたくかあちゃん」を大げさに読み聞かせしてあげて、読んだ大人の側が、「あーっ、気持ち良かった!この本読んですっきりしたねぇ~!」なんて自分だけでも爽快になる様を見せてあげると、子どもにも「何だかよく分からないけどスッキリ感」が伝染するのじゃないか!?なんて思います。実際に検証したことはないので単なる想像ですが(笑)、機会があれば検証してみたい。手洗いが苦手とか綺麗に対して無関心な、不潔な子とかが「わたる」に来ないかな(不潔な子って失礼な言い草かな…笑)。