小さな学習塾「わたる」~子ども達の自立と向き合う~

ADHDやLD、自閉症スペクトラム、アスペルガー等、生来より何らかの学びづらさを持つ子ども達の学習・生活支援を行う小さな学び舎「わたる」。その塾を経営するきつねが日々のことをぽつぽつ呟くブログです。

授業づくりは大変だけど

昨日に引き続き、今日も本の紹介をひとつ。
麻柄啓一先生の「子どものつまずきと授業づくり」(岩波書店)は面白くて何回読んでも新鮮というか、授業づくりのためのインスピレーションがわきます。ぜひ現場の先生方にも目を通していただきたい読み物です。


「授業本」って、一見すると退屈なものが多いのですよ…こんなことを言ったら悪いなぁ~と思うのですが…「この本がすでにつまらないのに、面白い授業づくりをしろって、壮大なブラックジョークじゃん!!」…と、教わる身のくせに逆ギレしたくなるような…そんな本も少なくないと思うわけです(※私見です)。


しかしこの本は違います。小説のようにさくさく読める。実際、物語形式でこの本は進みます。架空のキャラクター・新米教師の林先生が、初めて担任した5年生のクラスで「少数の入った割り算」を教えようとするのですが、そこで初めて「分かるように教えること」の難しさにぶち当たり、悶々とする…。


割りきれる割り算(6÷2のような式となる文)の時は特に問題なかったようなのに、少数という中途半端な数字が出てきた途端、子どもたちの歯切れが悪い…。気だるい空気が流れる。ざわざわする教室。林先生はどうして子どもたちが理解してくれないのか分からない。


で、とりあえずいつも出来る「賢い子」を当てて、その子に正解を言わせ、「これはそういうもんなの、分かった!?はい、口に出して言ってみよう!」とか何とか、「バシッ!」と教えることで突き進もうとするのだけれど、自分でその授業の「玉砕具合」には気づいている。
実際テストでも、いわゆる単純計算は解き方を「こういうもんなの!」と言ってやったからある程度みんな出来ているけど、文章題はからっきし。「こんなに出来ない子がいるの!?」と愕然とする林先生。


これだけでもう「面白そうな本だな!?」ってなりませんか、世の先生方!
別に麻柄先生の知り合いでも何でもないし、この本を押し売りしようというわけでもないのですが。自分自身、「子どもに分かる授業をするには」という永遠のテーマにはしょっちゅう苦しめられているため、この架空の新米先生と一緒に、問題解決へ向け、「わかる授業づくりを考える」本著には、共感と好感を覚えまくるのです。


……ぶっちゃけ、世の中には、自分の授業の玉砕具合に気づかない先生も少なからずいらっしゃいますよね。よくそんなつまらない授業を50分もやれるね?みたいな…。自分でも喋っていてつまらなそうだし、いっそ不機嫌だし、何のためにそこにいるの?みたいな…。私自身、そんな大層な授業ができるわけじゃないですけど、少なくとも教えることに退屈を感じたことはないです。生徒に「分かりづらい」と文句を言われたら改善できるようやり方を変えるし、特に言われなくても、自分の教え方には常に目を向け、客観的でありたいと思う。それって教える仕事を続けるからには、ずっとやるべき当然のことではないのかなぁと…。
だから、新米にして自分の授業がボロボロだってことに気づいて悩む、この林先生の奮闘ぶりに好感を抱くのです。


林先生は先輩の学年主任や、ベテランの授業づくりが上手い先生にも割り算のことを相談するのですが、どうもピンとくる回答が寄せられない。
で、そんな時、大学時代に履修していた教職課程を担当していた先生の言葉がふと過ぎる。


「自分がわかっていることと、それを教えることができることとは違う」


この言葉をくれた先生と偶然再会することで、林先生は、自分で当たり前に分かっているつもりだった割り算を、本当のところで理解していなかったんじゃないか、そもそも割り算ってかけ算が分からないとうまくいかない、じゃあかけ算を子どもたちはきちんと理解しているのか?…等々の気づきから、では如何にクラスの子どもたちに分かってもらえるかを考え、工夫した授業づくりを実践し始めるのです。


この本では「少数の割り算」と「速さ」という二大テーマで話が進むのですが、どちらも授業運びの様子が物語形式で描かれるせいか、実際に授業見学している気になるし、本当に教室でこういうドラマって起きるかも!と想像できて、自分でも試してみたい!となります。そもそも算数に限らず、「教え方について」のヒントもたくさんありますし。


また、本編とは別(?)に、林先生が、この恩師の開く勉強会に参加してくる若い女性教諭に仄かな恋心を抱いて、だからこそ余計にこの勉強会に熱心に参加するって下りがついているのも微笑ましいのです(笑)。いやー、先生だってそういう動機がないと貴重な休日を返上して勉強するのは大変だよ…という想いが、きっとこの作者先生にあるんだ…と理解(勘ぐり過ぎ?)。


実際、先生方っていくら楽しい授業をやりたいと思っても、その準備をする時間が圧倒的に足りないのは周知の事実ですよね…。さっきはきついことをちらりと書きましたが、先生だって、好き好んで教科書の棒読みして、ポイントを黒板に写してハイ終わりってやっているわけじゃない!と思うのですよ…。私、そうした授業を延々と続ける先生の目の前で、遂に睡魔に負けて気絶した際、その先生からめちゃ硬のバインダーで思いっきり頭をぶっ叩かれた恨みを未だに引きずっていますけども。←


ちなみに、私自身が教師になってから生徒によくされたダメだしは「雑談が多い=さっさと核心に行け」ですね(汗)。あれもこれもと余談を挟んでいるうちに時間がなくなり、「あー!また進んでない!」と怒られる。計画性ゼロです…どこが客観的なのだ…。
また、「ごんは難しい言葉を使い過ぎてて、何を言っているか分からない時がある」と言われたことで、「そうか!すまん!」となり、次の授業へ臨んだ際、いちいち言葉の説明をしていたら、「そんなことくらい知っているし。俺らをバカにしてんのか!?」と怒られて、「どないやねん!」となったこともあります(笑)。何事もバランスが肝心なわけですが、その調整がなかなかに難しい…。
昨日と同じ結論になるわけですが、つまりは毎日が要修行です。


遊びは安心

今日も元気に、開業したばかりの学習塾「わたる」で掃除に勤しむ私なのですが…。
自分の部屋はどんなに汚くても平気なのに、「わたる」は常にきれいにしておきたい!という、この欲求!!(当たり前)


別に新築の建物をお借りしているわけでもなく、前の店舗さんが残して行って下さったものなど引き継いでいる備品もあるので、どこもかしこもピッカピカ!とかではないのですが、自分的にはピカピカに見える。すでにこの場に対して、独り勝手に愛着がわいている。


それで、その愛着のわいた場所を掃除していると、「そうだよ!ホームページに、この教室の写真を載せないと、どんな所かイメージもつきにくいのでは!?」という、ごく当たり前の結論に行き着きます。今はサイトをお借りしている所が提供する写真素材を使用しているだけなので、全く関係ない自転車の写真なども載っている(我ながらこのチョイス、意味不明過ぎます…)。


しかし「センスよく」写真撮ってホームページに載せるって…、口で言うのはたやすいけれど、ド素人サイト作成者にサラッとできる所業ではないのですよ…。今の仕様だって分からないことが多くて質問メールを送りまくっているのに。(※注意※だからって、「当社にお任せいただければ、理想的なホームページを…!」とかって営業に来ないで下さい、その手の会社様。平に平にお願い致します。)
というわけで(?)、とりあえずホームページの改良が、直近野望の第1位。


ところで、とても狭い「わたる」ですが、教室内には「休憩スペース」があります。基本的に靴のまま闊歩してもらう教室ですが、そこだけは靴を脱いでもらいます。
カーペットが敷いてあるそこには、クッションが何個か置いてあり、子どもがひとりふたり、3人くらいまでなら、ごろんと横になれるかな?あとはちょっとした遊びもの(UNOやジェンガ、けん玉等)があったり、柔らかいボールに、おもちゃのバスケットゴールもあるので、休憩時間にはそこで好きな遊びをしてもらえたらと考えています。


あくまでも5~15分くらいの間でできるゲームしか置いていないので、プレステやDSに慣れたお子さんには一見退屈なおもちゃかと思うのですが、ゲームマニアの私が「誰かと一緒にやるならDSやプレステより断然楽しい」ものをこだわって選び、置いているので、いろいろ試してもらえるのが楽しみです。


で、このスペースを作る時に凄く思い出した子がいまして。もう何年も前なのですが、私が働いていた某教育機関で、「とにかく勉強したくない」という低学年の男の子がいました。別に来たくて来たわけじゃない、お母さんが行けって言ったから来てやったんだ!みたいな俺様くん。しかしここは勉強するところだからと、やるものを並べて見せたところ、それをすご~く離れたところから眺めて(絶対に近づきはしない…彼にとって勉強は爆弾みたいなものだから)、ぱっと見で「自分にもできそうだな」と思えたものはササッとやって、「こんなの余裕だぜ、俺天才だから!」と得意顔(可愛い・笑)。


しかし、それによってじゃあどんどんやっていこう!という「波」には決して乗らない。それよりも難しい、少しでもできなさそうな課題と思うと瞬時に放棄して、つまんねーやりたくねーの連呼。これはそんなに難しくないよ?ということを説明しようとしても、「うるせー、死ね!死ね!」の連呼。何なら、「俺にこんなつらいことをさせようとするお前!敵認定!」と攻撃もしてきます。そして、私が口を閉じるまで「死ね」を連呼し続けるのです。最も破壊的で威力のある言葉、人をたちまち黙らせる効果のある魔法の言葉だと、きっとどこかで感じ取った場面があったのでしょうね。だからその単語を多用する。


ただ、言われる方は、こりゃきつい!(まぁ前の日記に書いた「死ね」連呼の子よりは断然きつくないです・笑)
別に怒っていないし、そんなにもやりたくないことを強要する気もなく、こちらはただただ「話したい」だけなのに、全く聞く耳を持ってくれない、ように見える。実はそんなことはないのですが。
恐らく大人、特に「先生という人種」から発せられる言葉は、「お説教」か、自分にとっては「意味の分からない言葉の羅列」という印象が強烈にすり込まれているのでしょう。だから聞けない、聞くのは怖い、聞いている時もあるけれど、「やっぱり分からない」で、途中で聞くのを諦めてしまう。その子の特性もあると思います。あとは、話す方(私)のスキルの低さ。


ところが目をつり上げながら「死ね」を連呼するその子が、凄く柔らかく優しげな目も持っていて、それを見られる時が何をかくそう、「一緒に遊ぶ時間」でした。最初はルールも守らないし、俺様勝手に遊ぶだけ、どんな卑怯な手を使っても俺が勝つ!という辟易する遊びばかりだったのですが…、やっぱりそういう「むちゃくちゃなこと」って永遠に続かないんですよね。段々と、お互いが楽しく遊べる形に変化する(時間はかかりますが)。


学校現場だと、先生にはめちゃくちゃ反抗するのに、友達には至って普通の態度で仲良く遊んでいる、なんて子がいますよね。それって、一緒に遊ぶ友達からは、怒られたり、訳の分からない話をされるのではという「構え」が不要だからでは?と思うのです。友達とは安心して、ゆとりを持って接せられる。そう、必死に死ねを連呼するなんて、明らか切羽詰まっていますよ。ゆとりなんて全くない。……つまり、もし友達からも「怒られてばかりいる」「分からない話ばかりされる」経験をし続けたら、友達にもギスギスした態度になるのかもしれません。
でも、そうやって攻撃的になったり、強行に人の話を聞こうとしないのも、結局はこれまでに「できない」を実感させられたことによって被ってきたダメージ(心の傷)をこれ以上受けたくないから、ではないでしょうか。
だから、ダメージを受けない「遊び」の中で、ゆっくりと人との関係性を作ることも、とても大切なことではないかと思うのです。それも「勉強」ですしね。ゆとりの中で「楽しい」経験ができたら、仮にその遊びの相手が「大嫌いな先生」でもその関係性は変わっていくし、その子の「こいつはきっと俺に嫌なことばかり言ってくる」な気持ちも薄らいでくるのでは…と、その子との遊びを通じて感じました。


でも結局、そこでの目的はあくまでも「勉強すること」だったので、お母様はとても理解のある良い方だったのですが、もっと厳しく怖い先生がいる塾で鍛え直させますと辞めて行かれてしまいました。そりゃそうですよね。勉強させるってことでお預かりしたのに、勉強半分、遊び半分って割合でしたから。…因みに私は、理不尽なことを言う子とは普通に喧嘩もするので、その子とも大分大人げないやり合いをしましたが、辞めると決まった日に早くやってきたその子が、黙ったままいきなりぎゅっと抱きついてきた時はグッときました。私も別れるのが辛いよと…お互い意地っ張りで直接は言わなかったけど(笑)。今頃どうしているかなぁ、良い成績取って自信つけてくれているといいな。


「わたる」も「勉強するところ」には違いないのですが、この遊びスペースで今度はどんな子とどんなやりあいを展開できるのか、楽しみにしています。


掃除をさせたい!

今日も今日とて「わたる」で床掃除に精を出しています。「暇なのか?」などと言わないで下さい。このモップがけは「気分転換に最適」ということに気づいたのです。ゴッシゴッシ!モッキュモッキュ!(という音がしている気がする)モップがけをしていると、何やらその感触が気持ち良いし、「あ、そうだ!ホームページにはあの項目を付け足そう!」とか、「新しいリーフレットやちらしのデザインはあれにしよう!」等、いろいろアイディアがわいてくるのです。


何というか、さすがは〇スキンさんだなと。先だって、突然飛び込み営業の方が現れて、「当社の新商品であるこのモップを置かせて欲しい」と仰います。もう掃除用のモップは買ってあるし、何より「今うち、余分なお金がないんで、普通に無理です」とお断りしたところ、2週間だけ無料お試しで置いてもらうだけなんで!と。2週間置いたところで買わないものは買わないし、要らないとしか言えません。それでも、「タダですから!ちょっと試すだけですから!」って……営業の方はスゴイ。
で、置いていかれた某ダ〇〇〇さんのモップ。


…………使い勝手が良い!!!!!


そりゃ~勧めるわけだ。自信ありだったのですね、さすがは専門業者さん。感動すら覚えました。別に〇〇〇〇さんの回し者ではありません(今さら全伏せ字にする意味とは)。
はじめに買った安いモップとは明らかに違うのですよ。何だろう、柄の長さに変わりはないし、別に安物モップくんだって、ゴミを集めることに何ら不自由は感じません。


でもね、先述した通り、使っている時の「感覚」が違うのです。ゴッシゴッシ!モッキュモッキュ!とピカピカに「磨いている感」、「ゴミがとれている感」、これが堪らなくある。まぁこんな風に絶賛してみても結局買いはしないのですが(え)、あの営業さんがこのモップを回収に来たら、この間の掃除がとても楽しかったと、お礼の気持ちを伝えようと思います。そして1年後くらいにまた来て欲しいとお願いしよう…もしその時にお金の余裕ができていたら買うからと(笑)。


で、掃除です。掃除しない子、いますよね~。何としてもしない子。学級に1人、2人いませんか。みんなが床拭きなり、机運ぶなり、廊下を掃くなり、それぞれの分担に散ってその役割を果たしている時に、ウロウロ、チョロチョロ、先生の視界に入らないように逃げまくったりして。何と言いますか、「掃除なんて意地でもしない」という信念すら感じる掃除サボりの常習犯。
真面目な子なんかは、もうそんな「ずるい奴」は我慢ならないから、先生―!〇〇くんが何度言っても掃除してくれないー!何なのー!キーッ!…と、ストレスをためる。責任感ある女子の班長さんなんか、いっそ涙目になったりして。可哀想としか言えません。


学級内で掃除をしない子にはどうしたらよいか?
そういう悩みを持つ先生や真面目な子って、日本にきっといっぱいいる。なぜって、ちょっとググっただけでも、その悩みに対する提案が結構見受けられるから。
しつこく繰り返し指導するしかない!に始まり(笑)、掃除のやり方を、まずは先生がやって見せる、「きれいにしなさい」ではなく「ちり一つ落ちていない状態にしなさい」と具体的に指示する、範囲を指定して「3回拭く」等数をあげる、学級全体を「掃除する雰囲気」に持っていく=やらない子を少数派にして、やらざるを得ないような状況にする等々…。
モデルを示す、数や具体的指示を出すって、定番ですがグッドアイディアですよね。あ、最初が肝心だから、掃除に関しては絶対厳しく指導する!と、4月の段階ではっきり宣言するのが良いというアドバイスもありましたよ。そのタイミングを逃したらどうすれば…という問題はあれど、サボりの現場を前にいきなり叱り飛ばすよりも、掃除に関して先生は絶対に容赦しないと、あらかじめ伝えておくことって大切ですね。「前振り」って、特に、発達に特性あるお子さんに対しては、何に対しても重要ですから。


机や椅子をズルズル引きずっていたり、適当にほうきを動かすだけで全然ゴミが集まっていないクラスなんかを目にする機会があると、あ~ここは先生が最初に掃除の仕方を指導しなかったんだなぁ…とどうしても思ってしまいます。
逆に、「ほうき隊」が結成されていて、その後を「床拭き隊」が列を成して動いていたり、机は2人、椅子は1人で運ぶなどということが目に見えて「ルール化」されているクラスは、床にも机を置く位置が分かるテープが貼ってあったり、ぞうきんもきちんとかけてあったりで、あ~、ここの先生は、教室環境への意識が高いのだなと感じます。


小学生のうちに掃除の仕方を会得するのって大事ですよね。ぞうきんの絞り方、ほうきの使い方なんて一生使える知識ですもん。ぶっちゃけ、古文の「竹取物語」をスラスラ解読できるより、掃除のやり方をマスターしていた方が社会に出たとき重宝されると思いますし(古文を否定しているわけではありません、今ぱっと思いついて…すみません古文の先生)。


ところで、掃除のやり方も知っているし、係の仕事はするものだという「常識」も分かっているのに、何としてもやらない子もこの世には存在する多分…。先ほど書いた「意地でもやらない」みたいなタイプの子。
そういう子に理由を聞くと、シンプルに「めんどくさい」とか、「別に、やりたくねーから」等、投げやりな解答をする子、理由自体、無言を貫き答えない子もいるしで、様々です。決まり悪いから黙っているのか、掃除しない理由を言語化できないからか、それはその子によって違うでしょうが。みんながやっていることを自分もやったところで「目立てない」し、それは特別なことでも何でもないからやらない、というのもあるかもしれない。承認欲求が強いというか、俺様「だけ」が活躍し、輝ける場を求めているので、「みんなでやること」に価値を見出せないというか。


掃除なんてな~!みんなやりたくないのにやってんだよ!面倒なもんなんだよ!そこで自分だけやりたくないからやらないなんて我がままが通るわけないだろ!?我慢を覚えろ、それが社会で生きるってことなんだ!
……って言いたくなる先生、いると思う。でもそんな正論的「お説教」、サボりの常習君なら序盤の段階で右から左、いっそ幽体離脱するから、真っ赤になって怒るだけ虚しい…。で、「あいつはもうしょーがない、知らん!」ってなって、義務教育9年間、まるっと掃除しないで卒業、なんてパターンも、もしかしたらあるのかも…?


けどそんな子も、数年後、例えば独り暮らしの部屋に初めて彼女(彼氏)を招き入れるなんてイベントが発生したら、せっせと掃除するんですかね(笑)?まぁ掃除はそんなに甘くないし、掃除経験ない人がいざやろうとしたって上手くできるわけないから、結局片付けられなくて「もういいや!」ってなって、で、フラれるだろうな(失礼過ぎる妄想)。
大体にして、いくら何らかの事情があったとしても、言語上は「面倒」とだけ主張して、周りの忠告もシカト、自分のしたいことだけして大人になってしまった子が、周りに受け入れてもらえるような存在になれるだろうか…。


てことは、やっぱり掃除のやり方くらい伝授したいし、私が今回快感を覚えたような気持ちの良いモップだってこの世にはある(笑)ことを教えたいし、掃除をする利点、楽しさにも気づかせたいし、「スッキリ」な感覚を経験させたい。だから教える側が「もう知らん!」と言ってはいけない。諦めたらそこで試合終了だから。
掃除を「やらない」「やだ」と言っている子それぞれに、きっと何らかの理由と想いはある。その気持ちに想いを馳せつつ、でも、掃除の仕方は絶対教える。少なくともその意思は示し続けるという覚悟が、先生の側には必要なのかもしれません。


快感のモップがけから思わぬ話に発展してしまいました。学校の先生って本当にしんどい仕事。いつも本当にお疲れ様です。