小さな学習塾「わたる」~子ども達の自立と向き合う~

ADHDやLD、自閉症スペクトラム、アスペルガー等、生来より何らかの学びづらさを持つ子ども達の学習・生活支援を行う小さな学び舎「わたる」。その塾を経営するきつねが日々のことをぽつぽつ呟くブログです。

子どもの攻撃性と向き合うとき

自分が心理学を勉強し直すきっかけの一つに「キレること」への関心があったので、昔から子どもの攻撃性について書かれた本をよく読むのですが、先日手に取った本が今から約20年前に書かれたものだと、借りてから気がつきました。


それで、「今とあまり合致しない感じかな~」と思ったのですが、読後「20年前から、子どもを取り巻く環境や学校現場の問題って、実はあまり変わらないのかも…」という感想が先立ちました。
もちろん、変化している点も多々あるのですが、例えば「学級崩壊」「子どもの荒れ・非行」「いじめ」「疲弊する教員」「LD」といった単語はこの頃からすでに使われていますし、子どもが「習い事に忙しすぎる」なんて言う部分も今と同じです。


また、その多忙な子ども達がわずかな自由時間にすることのアンケート結果に驚いたのですが、それらの筆頭が、


・テレビを見る
・ゲーム(ファミコン)をする
・寝る
・何となくすごす
・漫画を読む、音楽を聴く


…とあったものですから!これって、テレビがYouTubeに変わり、ファミコンがニンテンドースイッチに変わっただけでは?となりますよね。「何となくすごす」「寝る」なんて、実によく聞くあるあるな時間の過ごし方ですし。


また、子どもの「日々のムカツキ」に関するアンケートなんていうのもあったのですが、ある県の教育員組合が実施した、「あなたは〝ムカつく〟ことがありますか」に対する小学生~高校生までの回答で、質問に「よくある」「ときどきある」と答えた割合が、


・小学校高学年 64.2%
・中学生    82.6%(高っ!)
・高校生    78%


…とあり、「わたる」がある神奈川県でも今この調査をやったら、これくらいの数値が出るのでは?東京やその他の都道府県でもさほど変わりはないのでは?と思いました(県により多少の差異はあるでしょうが)。


こんなにも日々ムカついている子が半数以上いたとしたら、教室内はさぞ負の連鎖で殺伐としそうだ…などと、どんよりした気持ちになりますが、一方で別のアンケートでは、「学校が好き」と答えている子が結構多い結果となっており、学校の何が楽しいって、「友だちと遊ぶ・話す」がダントツで、次に「遠足や文化祭などの行事」が入っていたりして、子ども達が気の合う友だちと遊んだり、数々のイベントで共に汗を流すこと等に喜びを見出していると分かり、ほっとし&嬉しくもなりました(まぁ私自身は学校で何が1番嫌って、その「行事系」でしたけども…笑)。


因みにそのアンケでは、逆に学校で最も嫌なことはというと、「授業」「勉強」がダントツ。分からないから、というのがその理由だそうで。なるほど~…。


今も類似したアンケートを取っている研究者さんがどこかにいらっしゃるはずなので、それはまた後で調べて、機会があったらまたこちらで紹介致します。予想としては、多分そんなに上記と変わらないのではないかと思いますが。


ところで、この本の中で最も印象深かったのは、荒れた学級・生徒に対して奮闘された、ある先生の報告記録です。
その先生は、とにかくその問題の生徒に寄り添うため、夜中に家庭訪問したり(汗)、耳掃除やマッサージ、ふざけあい、相撲、抱きしめなど、「意識的な身体的接触を積み重ねた」そうなのです。そしてそれにより生徒は確実に変化し、「ためらい照れ隠しを伴いながら、甘えたり、『肩を揉め!』などと自分のしてほしいことを教師に対して言葉で要求できるように」なり、「人間的な感情のコミュニケーション成立の中で、暴力は、とくに学年内で目立って減少した」そうです。


この本の筆者はこの報告に対して、「中学生の耳を掃除したり、肩をもめと言われて、肩をもんでいる教師の姿は、常識的に見れば異様であるかもしれない」と書きつつ、その「教師の常識」こそが「子どもと心を通いあわせることをじゃましている」との、その先生が指摘されたことを綴っています。


また筆者は、この先生が「暴力を振るう生徒の指導として、教師が生徒の耳掃除をしたり、肩をもむことを一般化しようというのではない」と断った上で、「心の通わない子どもたちとどこかで交流の糸口を探そうとするならば、彼らの生活の丸ごとをつかみながら、彼らのとりあえず望んでいる『イイ感じ=心地よさ』に寄り添っていくことが求められているといっているのである」と補足(つまりフォロー)しています。


そしてその方法は、「決して教師の指導の戦術としてではなく、真に人間的に共感していくことが求められているのだろう」とも…。「そのことが、教師の本来の仕事か否かという論議は、先に送ってある一定の方向が見えてからやってもおそくはない」とも…。
これら一連の文章を読んで、いろいろと考えさせられました。じわじわと感銘もしました。


「先生」として生徒に接しようと思ったら、深夜に家庭訪問したり、肩をもめ!と言われて唯々諾々とその子の肩をもんであげるのは何かが違う気がする…。
身体接触も、男同士だからかろうじてセーフ(?)な気もしないではないながら、身体に触られることが苦手な子や、思春期の年代に対して試みるには危険な行為という場合も多々あると思うので、決してそれを「戦術」として一般化はできない、それは著者の先生も指摘されていて、そうだよな~と思う。


けれども、昔のドラマ「金八先生」が、深夜に生徒を自分の下宿先に呼んで話をしてあげたり、生徒がアルバイトしているスナックに入り浸ったりすることで、彼らの頑なだった大人に対する不信感を徐々に払拭していったように(ドラマとはいえ、あの作品が多くの人々に絶大な支持を受けたのは、実生活と絡めて強い共感性があったからだと考えます)、「人として」の繋がりをまず大事にしようと思った時、相手とのコミュニケーションが拙い子どもに対して、言葉の拙い子どもに対して、その先生がまずしようと思い立ち、されたことを、「教師としてそれは間違っている!」とはとても言えない…と思うのでした。
…だからって、全ての先生がこうするべきだ!とは言えない、というのは、繰り返し書いておかなければ…ですが…。


要は、今のその子にはどんなアプローチが必要なのか?を考えて、その人(先生)なりの、その人らしいやり方でそれぞれぶつかって行く…ということなのかなぁと私は解釈しました。「ぶつかっていく」…前に読んだ書籍にもありましたが。見えない心と向き合うというのは、本当に大変です。
夏休みは先生のリフレッシュ&2学期への準備期間にもなるといいですよね。


追記…引用文献「子どもの攻撃性にひそむメッセージ」(村山士郎著・柏書房)


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