小さな学習塾「わたる」~子ども達の自立と向き合う~

ADHDやLD、自閉症スペクトラム、アスペルガー等、生来より何らかの学びづらさを持つ子ども達の学習・生活支援を行う小さな学び舎「わたる」。その塾を経営するきつねが日々のことをぽつぽつ呟くブログです。

先生がしてはいけないこと

山田章さんが書かれた、「教室で使える発達の知識―発達が凸凹の子どもたちへの対応」(クリエイツかもがわ)という本を読んだのですが、読み物として面白く、思わず声に出して笑ってしまう場面もしばしばでした。「なるほど~!」と頷くところも多々あり。


例えば、「思考の柔軟性が弱い」子どもに〝先生が絶対してはいけないこと〟として、


〝強く叱ったり、やりたくないことを指導・強要したりしてはいけない〟


……というのは、まぁ近年よく聞く模範解答というか、割と一般にも認知されてきた事柄かなと思うのですが、


〝中途半端に親切にしない〟
〝やりたがっていることをやらせて褒めてはいけない〟


…等の項目では、「あ~、学級でやっちゃったことあるよ~!」が満載でした。


「中途半端親切」の例としては、子どもが赤鉛筆を忘れて答え合わせができていない時に、先生が、別にその子から貸して下さいとも何とも言われていないのに率先して自分の赤ペンを差し出し、「これで〇つけしなさい」と声をかけ、実際にやったら「頑張って〇つけしたね」と褒めてあげる―…。


冷静に考えたら、そりゃダメですよね。先生としては、授業に参加してもらいたいからこそ、手元にあった赤ペンを何の抵抗もなく差し出した。それによって、独りぼーっとしていた子が自ら〇つけできたのだから「頑張ったね」も言ってあげたい。当然の流れです。
しかしこれでは、「別に赤ペン忘れてもよくね?」と誤学習してしまう…。あー…。教員時代は何の考えもなく「も~何でペンないの!?はい!」とか言って貸してあげていました。思い返せば、そういう子はその後もしょっちゅう「当然の態度で」私にペンを借りてくるようになっていましたわ(スキンシップかと思っていたくらいです・汗)。


「やりたがっていることをやらせて褒めてはいけない」の例も唸りました。
よくあるパターンが、「俺がプリント配る!」と立ち上がってきた子に、「助かったよ、ありがとう」って言っちゃうやつ。
………あるある過ぎる~!笑
しかし本書によると、これは親切で「配ってあげる」と言ってきているわけではなく、「俺様に配らせろ」という命令であり、それを了承してしまうと、その王様に臣下が従った図式となるので良くないと(笑)。普通なら「先生、プリント配りましょうか?」とお伺いを立ててやるものだと。
他にも「俺が黒板消す!」、しんどい友達を「俺が保健室へ連れて行ってあげる!」、視聴覚教材のスイッチを「俺が入れてあげるよ!」等々…。あくまでも本人がやりたいからやっているだけであり、親切ではないので(笑)、唯々諾々とやらせてはいけない…というような内容でした。


うーむ、あれもこれもやってしまったよ。と、反省することしきりです。何か仕事を任すことで、自分もクラスの役に立っていると思ってもらいたいとか、感謝される喜びを知ってもらいたいとか…。いろいろな思惑があるからこそ、子どもの申し出にOKを出し、「お手伝い」させているつもりだったのに。でも、確かにそうだ。こういう「親切」を重ねさせても、子どもはやりたくない掃除や係の仕事、めんどくさそうな作業に率先して「やってあげる!」と「こちらが望む親切」は発動させなかったものなぁ…。


これでどこが笑えるのだ!?と思われるかもしれませんが、あまりにあるある過ぎて笑ってしまったのです。己の失敗も顧みつつ。


また、まだうまく関係性が築けていないなと思っている子に突然、「ブタ」「死ね」などと言われたとして、きつく叱ったり、大げさに悲しんだりしてはいけない。なぜなら、言いたいことを上手くわかるように言えないその子は、「嫌いだ」「向こうに行け」と言っているだけなのに、それに対して派手な反応を示したら、「ブタ」「死ね」で通じたと思うので、以後ずっとそれを使うようになってしまう、と。注意しないと「ブタ」遊びに転化して、先生を怒らせようとして、しつこく「ブタ」と言って来る、いっそわくわくしながらそれをやる、そのうち〝「くされブタ」などエスカレートしていくことになります。〟と…。あまりにも冷静に淡々と解説されるので、「く、くされブタ…!」とツボってしまいました(笑)。
「嫌いだ」「向こうに行け」と言われるのもショックですが、確かに「ブタ」「死ね」よりは真っ当に言われた方がマシだ(笑)。私もサポート校時代、最初は良好な関係を築けていると思っていた生徒を、授業中に一度、「ちょっと煩すぎるから静かにして」と言ったその瞬間から関係性が瓦解して、以降は「おはよう」と言うだけで「死ね」と言われ続けました。廊下で会っても死ね、さっきまで友人と談笑していたはずでも真顔で死ね。スキー教室へ行った時も、てっぺんから華麗に滑降してきたその子が、遠くにいた私を見つけて、「ごん~!死ね~!」と大声で叫んできた時は、いっそ執念のようなものを感じました。
同僚の先生方は、あんなにもしつこくごん先生に絡むなんて、よっぽど先生のことが好きなんだね~なんて言っていましたが、私にはとてもそうは思えませんでした。あの「死ね」にはきっといろいろな意味が含まれていたと思うのですよ。好きとかじゃなくてね。本当お前むかつくな、俺の視界に入るんじゃねえよ、邪魔なんだよ、何であんなちょっとくらいのことでみんなの前で注意したんだよ?ほとんどは授業聞いていてやっていただろ?それを…この馬鹿野郎!…みたいなね。
でも、言われている方としては「死ね」の2語しかないから、毎回辛いわけです。何せ、新卒の20代前半、経験のない若造でしたからね。そのため、毎度懲りずに「凄く嫌だ」というリアクションを取って、それにより「やったぜ、こいつが嫌がっているぜ」でさらに「死ね」の単語は加速しました。この本では小学生の事例でしたが、高校生でも同じような事例はあるという話です(笑)。


先生たちは日々、いろいろな児童・生徒と関わって、意思の疎通がとれないと感じてしんどいこともあるかと思いますけど、ただ、未熟な子どもさんはきっともっと辛いですよね。単純な悪意の単語でしか通じたと感じられず、相手に自分の思いのほとんどは「通じない」。とんでもないストレスでしょう。言葉通りに受けとめるのではなく、その短い単語の裏に隠された意味を大人の側が丁寧に探り、慮ることで、お互いの関係性も変えていくことができるのかなぁなんて、この本を読んでいて改めて思いました。日々修行ですね。


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