小さな学習塾「わたる」~子ども達の自立と向き合う~

ADHDやLD、自閉症スペクトラム、アスペルガー等、生来より何らかの学びづらさを持つ子ども達の学習・生活支援を行う小さな学び舎「わたる」。その塾を経営するきつねが日々のことをぽつぽつ呟くブログです。

「三日坊主」から連想したこと

開塾にあたり、このブログはなるべく毎日更新しようと思っていたのに、早速その決意は破られてしまいました…。折角連続3日書いていたのに。見事な三日坊主。


「三日坊主でもいいじゃない!やらないよりはさ!」


…とは、私の大好きな某アイドルさんが明快に言い放ってくれている台詞です。良い言葉だなぁ~。そうですとも、やらないよりは、たった3日でもやった方が前進している。「0」記事ではなく、「3」記事あるわけですから。そんな精神でいたい、常に。―そうやって自分を甘やかすことも時には大事ではないでしょうか?(と、私の場合は自分を甘やかし過ぎているとも言いますが…。)


自分に甘いからダイエットも長続きしない(しかも私はあきれるほどの偏食家)。
自分に甘いから規則正しい生活もなかなかできない(夜中にゲームをやりまくる)。
自分に甘いから無駄遣いをしてしまう(あれ…?何だろう、自分で書いていてかなりのダメ人間な気がしてきたぞ…)。


我ながら本当にダメだな~と思うのですが、これが「ダメだな~」で済むようになってからの自分は、大分ラクになった気がします。「まぁいいか、そんな自分でも」という域に達するまで、これがかなりの時間を要している…。
それまでは、できないくせに「やらなきゃ!」「やりたい!」思いがとにかく強かった。別にそこで終わる分には、向上心があって良いと思うのですよ。…でも、そういった気負いがある時って大抵、「できないなんてクズ!」という思考もセットで押し寄せてきます(笑)。あくまでも私の場合です。でもそんなだから、若い頃は「自分」というものが本当に好きじゃなかったですね。最近ではこういうのを「自己肯定感が低い」というのでしょうか。小難しい言い方だから個人的にあまり好きではないですが…、実際「これでいい」と思えないことってしんどいですよ。あ、何でもかんでも適当にやって、「これでいい」というのとは意味が違います、念のため。


え、じゃあそのガタガタの自己肯定感をどうやって上げていったの?節制しない、ゲーム依存、要は自分に甘々って…最悪ですやん…という天からのツッコミは置いておきまして…。
私の場合は、単純に「歳をとったから」というのと、「自己分析をやりまくった」というのがあるかもですが、やはり1番は「周りの人のおかげ」ということになると思います。あ~そういうきれいな結論か~とガッカリ(?)しないで下さい。でもやっぱりそれが大きいのは揺るぎのない事実だと思うのです。


例えば、私は中学1年生の頃、とても変わった塾へ行っていたんですね。そこは「寺子屋」という別称がついていて、パンチパーマにちょびヒゲ、薄い色眼鏡をかけた強面の、一見「あ、あちらの世界の方ですか(汗)?」って風貌の中年の男の先生が、1人自宅でやっている塾でした。その先生は、基本、無口で気難しい方でしたが、ある日、私が持参した学校の通知表をまじまじと眺めた後、教科の成績については一切触れずに、こう言ったのです。


「あなたの担任が所感の欄で〝もっと積極的になった方が良い〟と書いているけれど、これはどういう意味ですか?」


この時の担任にはかなり嫌われていて(と、私は思っていた)他にも否定的なことを書かれていたので、私はとっさにシュンとして、「学校ではあまりしゃべらないし、授業中も手を挙げたりしないので、そのことを言っているのかなと…」と、ボソボソ答えました。
すると先生は、突然、烈火のごとく怒り出して、唾を飛ばす勢いで声を荒げたのです。


「つまりそれは〝控えめ〟ということじゃないか!それの何が悪いんだ!このような書き方では、まるであなたが悪い生徒のように思える!馬鹿じゃないのか、この教師は!」


……何というか、あれから何十年と経っても、あの時のことを鮮明に覚えているのは、とても嬉しかったからでしょうね。自分の代わりに怒ってくれた、自分のことを認めてくれた。担任の先生と出会った日数的には同じなのに、この塾の先生はまるで違う評価の仕方をしてくれた。この体験は私にとって非常に大きなものでした。


多分、そういう(誰かに認めてもらう)体験をひとつひとつ積み重ねていくことが、「今の自分でも大丈夫」「これでもいいんだ」と思える地盤を作っていくことに繋がるのかなと思うんですね。生きていれば自分のダメさを指摘してくれる人も現れるわけで、それはそれでありがたいけれど(そこに悪意がなければ)、そればっかりじゃ人間やっていくのは大変過ぎる。自分の良さを認めてくれる人、それをきちんと言語化してくれる人が、健康的な自分を作る一つの要因になるのではないかと、あの先生の怒り狂った真っ赤な顔を思い出すたびにしみじみと感じるわけです。


長くなったので、この先生がいる「寺子屋」塾については、また機会を見て書きたいと思います。


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