小さな学習塾「わたる」~子ども達の自立と向き合う~

ADHDやLD、自閉症スペクトラム、アスペルガー等、生来より何らかの学びづらさを持つ子ども達の学習・生活支援を行う小さな学び舎「わたる」。その塾を経営するきつねが日々のことをぽつぽつ呟くブログです。

比べることは悪いこと?

もう2月!何と月日が経つのは早いのでしょうか。年を重ねていくと余計にそう感じる今日この頃です(ヨボヨボした感じの出だし)。


老け込んでもいられないので、今日は「ライバル」について書きたいと思います。
突然ですが「わたる」の塾長である私には勝手に…もうそれはそれは一方的に、「うちのライバル!」と思って意識している学習塾さんがあります。恐らくというか、絶対、向こう様はうちを知りません。そしてホームページを拝見した印象では、そちらの塾はバリバリの進学塾さんで受験勉強に特化していらっしゃるようなので、同じ「塾」で「勉強するところ」というのは共通していても、正直「わたる」とは毛色が違うなと感じます。
それでも、勝手にライバル視しています(笑)。


もちろん、私なりにそう思ったきっかけや理由はあるので、「全く系統が違う」というわけではありません。いつの日か、「ああ、〝わたる〟さんね、知っていますよ!」と、そこの塾長さんに認識してもらえるくらい頑張りたいな、と思ったりもしています。
で、ここで言いたいのは、塾長・ごんの「何やらアヤシイ対抗意識」などではなく、何かを頑張ろうと思った時に、「意識する相手」「競い合う相手」がいるというのは幸せなことなのではないかなぁと。そういう話なのでした。
勝負を挑んで負けたら悲しいし悔しいけれど、自分が目指しているもののその先に、全くなんにもない、誰もいないというのも、何だか寂しいし、つまらない。


ひと昔前、ある学校で、やたらと順位をつけるのはどうなんだという意見が採用されて、運動会の徒競走では1位、2位を決めるのをやめた、というニュースを見たことがありました。


1位なんて決めなくて良い。ましてやビリ!などいうことが分かるような教育はけしからん!そんなことをして、足の速い子が遅い子を馬鹿にしたり差別したり、或いは足の遅い子が速い子を見て、「自分は何てダメなんだ…」と劣等感を抱いたらどうする!だから勝敗なんてものを教育の場でつけることは間違っている!
…という議論があったかは分かりかねますが、そういう話し合いもあったかもしれない、なんて思ったものです。


しかし、仮に足の速い子が自分より遅い子に対して、「お前、足遅っ!ダサッ!」とからかったり、「トロい奴はあっち行け!」などと仲間外れにするなんてことがあったとしたら…。それって格好の教育機会というかで、「ゴラア~!ちょっと待たんか~!!」と、先生は大活躍できると思うのですけど、どうなのでしょうか。
「順位を決めないようにする」というのは、少なからず「そういうことが起きないように」という気持ちもあったと思うのです。いじめが起こりそうな、それが予見できそうなことは、極力事前に取り除いておこう、というような。


けれども、幾ら大人の側がそうやって一生懸命に争いが起きないよう、余計な波風が立たないようにと配慮して「あげた」としても、集団生活において先回りしきれないことなんてあり過ぎるわけで、結果的にそういうことが子どもさんを守ることには繋がらないんじゃないのかな…と、個人的には思います。


また、仮に足の遅い子が速い子を見て劣等感を抱き、「自分は何てダメなんだ…」と思ったとして。そこも貴重な教育機会ですが、それはともかく、これって徒競走に限らず、それこそ幾らでも転がっている(と言ったら言葉は悪いですが)事案ですよね。
何故って、学校なんて「比較」の機会に満ち満ちている。
私も何かにつけて人と比べられることにうんざりしながら育ってきたので、学校での出来事を少し思い返すだけでも、そうしたエピソードは山のように出てきます。


「Aさんは授業中、いつも積極的に発言して感心ですね。きつねのごんさん、あなたも、もう少し自分から発言するようにしましょう。その際はCさんのように大きな声で堂々と話すと良いですね」
「ごんさん、どうしていつもお外で遊ばないのですか?Bさんはいつもみんなを誘って外遊びしていて楽しそうですよ?ごんさんも誰か誘ってみましょう」
「ごんさん、あなたは今回の英語、70点だったけど、これ平均点80のテストだから」
「ごんさん、あなたはちょっと可愛げがないし、太り過ぎです。人気者のCさんを見習いなさい」(余計なお世話じゃ)


……最後の2つは仮に事実だとしても残酷過ぎるので、そんなことを言う先生はさすがにいないと思うでしょ(笑)?しかし世の中っていうのは、そう、案外「信じられない」ことで溢れかえっているものです。
またこれ、家族間でならどうでしょう。遠慮がない分、「テストの出来」「外見」に関する比較は意外にサラッと言われたりすることもあるのではないでしょうか。さすがに他人には言わないけれど、家族にはズケズケ言っちゃう!ということは往々にしてあるものです。


誰かと比べられて、自分の悪いところを指摘されるのは本当につらい…。
いいじゃないかよ、みんな世界に一つだけのオンリーワンなお花だよ。そういう共感のもと、大ヒットした歌もありましたね。みんな鬱屈とした想いを抱えていたのでしょうね。本当そうです。みんな違って、みんないいのです。


それでも、今日の記事では敢えて。私は比べることそれ自体が、全て悪だとは思わないんです。上記のように第三者から何だかんだと言われることはとっても憂鬱だし反発したいけれど、でもじゃあ、自分からだったら?自分から誰かを見て学んだり、私も頑張りたいな、ぼくもAさんみたいになりたいなと…そんな風に思えるのなら、誰かと比べるのも決して悪いことじゃない、むしろ素敵だな、と思えます。
学校の意義って、みんなと一緒に生活する中で、自分以外の大勢の人を見て、接して、様々な気づきを得られることでもあると思うのです。


あれ?自分は何だかBくんより勉強ができないや…。でも、かけっこは得意だし、みんなを笑わせるのは得意だぞ。
私はCちゃんみたいに優しくなれない時の方が多いけど、この前は困っているCちゃんを助けられたよ!…とか。
みんな違って、みんないい教育というのは、全ての順位、優劣を廃することではなく、そういうものが溢れている世界(学び舎)の中で、その子の良いところも苦手なところも全部ひっくるめて大人の側が理解し、それをその子にきちんと伝えてあげられることなんじゃないのかなぁ…、そうして、その子自身も自分のことを知り、理解していきながら、そういう自分を受け入れ、大人になっていくことが大事なんじゃないかなぁ……と思うのでした。


ライバルから思わぬ話に発展してしまいましたが、競争相手、比べる相手っていてもいいし、仮にそこで負けても挫けない心が育てばいいし(それが大変なんだけど・笑)、誰かに「勝ちたい」って気持ちは悪いことじゃないよな、というお話でした。
でも、あんまり勝ちたい勝ちたいが先んじても、島国に暮らしていると引かれちゃうことも多いから、なかなかに匙加減が難しいですけどね…(笑)。


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