小さな学習塾「わたる」~子ども達の自立と向き合う~

ADHDやLD、自閉症スペクトラム、アスペルガー等、生来より何らかの学びづらさを持つ子ども達の学習・生活支援を行う小さな学び舎「わたる」。その塾を経営するきつねが日々のことをぽつぽつ呟くブログです。

掃除をするorしない自由

前回のブログで、私が飲食可の高校にいた話をちらりと書きましたが、そこでは「自由」というものについて、嫌でも考えさせられました。何故って、そこにはギチギチの校則で塗り固められた中学校生活とはまるで逆の、まさに「さまざまな自由」が認められた環境が整っていたからです。


余談ですが、その「ギチギチ校則」の中学校は酷かった…。「昔だから」と言ってしまえば簡単ですが、体罰当たり前、先生の好き嫌いで成績つけられること当たり前、いじめが遭っても見てみぬフリ、いっそ「いじめられる側にも責任がある」なんて暴言を教師が堂々と言ってしまうような所でしたから…。
校則も「そんなことまで必要ある?」というような…あるあるですが、スカートの長さや髪の長さ、靴下の色、授業中にジャージを着てはいけない等々…恐らくはどこの学校にも少なからずある「細かい決まり」ってやつが所狭しと並べられておりまして…。


前にも書きましたが、私は「授業中に飲食禁止」は納得している派です。何故って、私の価値観では、「自分に物を教えてくれている人の前で自分だけが飲み食いするのは失礼」という考えがあるからです。
他にも、「欠席する際は学校に連絡」とか、「忘れ物をしたら授業前に先生に申し出る」といったことは、「そりゃそうだよな~」と思えます。前者は無連絡だったら心配をかけるし、後者は、事前に伝えて先生に対処を仰いでおかないと、自分が困るから。


つまり、そこに「まっとうな理由」があると理解できれば、校則も悪くない。


けれども、「靴下は白のみ」とか「髪がみんなよりちょっと長いとNG」とか…、そこらへんは「何で??」となってしまう。
しかもですよ、それを破ると、先生によっては何の猶予もなしに恫喝されたり、定規でぶっ叩かれるわけです。……あぁっ、そうか!先生は、自分がそういう悪者になることによって、「世の理不尽」ってやつを教えてくれようとしていたのか!?
…って、恐らくは違う(笑)。


余談が過ぎました。とにもかくにも、そんな中学時代にうんざりしていた私は、「校則がない」高校生活に期待しまくっておりました。
自由って何だ!?よく分からないけど、素晴らしい!先生が生徒を無理矢理上から押さえつけたり、勝手にこっちの着る物や髪型にも制限をかけてこない!それは校則違反だからとぶっ叩いてもこない!うひょー!
…入学式前、自分で選んだ可愛いカバンを用意しながら、おかしなテンションでウキウキしていたことを、今でもよく覚えています。


で、確かに自由な学校だったのですけど。
…うーむ。何だろう、これは?むしろあの暗黒中学より酷いな??…と思うようなことが、そこでもたくさんありました。
私がいたクラスが独特だったから…というのもあったかと思います。先生方が言うには、「本校はじまって以来の問題クラス」だったらしく、良く言えば変わり者、悪く言えば自分勝手な人間がいっぱい集合していたのですよ(クラスメイトの悪口を言いたいわけではなく、あくまでも客観的に評価してのコメントです、自分も込みで・笑)。


最も忘れられないのは「掃除」ですね。私立だったので、基本的には校舎内の主立った場所は清掃会社の方がやって下さっていたと記憶していますが、教室とかその前の廊下なんかは自分たちでやりました。教室にはちゃんと掃除道具入れがありましたし。
絵本「いやいやえん」に登場した園内で、「ここでは何をしても自由」だけれど、「お片付けは自分でやる=自分で使ったものは自分できれいに」というルールがあったように、私がいた高校でも、「自分たちが世話になっている教室」を掃除するというのは暗黙の決まりとして存在していたと思います。


でも、2年次の担任の先生が、「掃除をするもしないも君たちの自由にしよう」と言ったのです。
「決められてやるのではなく、やりたいと思ったらやろう」と。
で、先生自身は、「私はこの教室が好きだし、世話になっているから、私は掃除します」と宣言したのです。


私は内心で、(どうかな~それ?)と思いました。私の他にもはっきりと、「先生、そんなこと言ったら、ずっと掃除しない奴らが出てくるよ!ちゃんと当番を決めた方がいいよ!」と意見した子がいました。
でも先生は「とにかくこれで1年やってみよう」と言うわけです。


どうなったと思いますか?
結果は、私や「当番を決めた方がいい」と主張した子が想像した通りとなりました。
放課後、黙々と掃き掃除をし、机や椅子を運ぶ先生(当時すでに結構なお歳を召されていました)に対し、付き合ったのは4~5人の固定メンバーのみ。その人たちも「自分が掃除したいから」参加していたというよりは、「先生1人にさせるのは忍びないから」やっていたのだと思います。そして、やらない人たちは一切やりませんでした。一年間。


「やらなくていいなら、俺はやらない自由をとる」←……
「先生は恩着せがましく自分がそうして掃除するところを見せたら、俺たちがみんな掃除すると思っているの?だったらドラマの見過ぎだよ」←何て生意気な…
「掃除なんて、そもそも業者に全部やらせりゃいいんだよ」←こ、こいつ…!


いや~…。世の中確かにドラマの通りにはいかないなって思いました。


「先生~!だから言ったじゃん~!」と、何人かは文句を言っていたと思います。そういう子に限って先生と毎日掃除していたりするんですけどね(笑)。
私はと言えば、毎日やる子達とは一線を引き、「自分の良心が痛まない程度」に参加するという、実に小ずるい戦法でその年を乗り切りました。
掃除はしたくない…ぶっちゃけ。しかし、まるっきりやらないのは、それはそれで確実に申し訳ない…そんな風に思ったんです、当時の私は。
で、恐らく先生は、私のように感じる生徒がほとんどだと考えて、この提案をしたのじゃないかと思うんです。そしてそういう者たちに、「今日は掃除するorしない」を選択する「自由」を与えてくれたんじゃないか?…と。


しかし実際全体の2割にも満たなかったわけですからね、年間を通して。参加した人数が。これが自由…?ってなりますよ、多感な十代としては(笑)。
しかもですよ、一切掃除に参加しなかった者の中には、掃除をしている少数派に向かって「いい子ちゃんぶって」とか「偽善者」まで言いだし始めるのがいて、こりゃ大変です。


自分が「やらない」と選択したのなら、それは別に構わない。いや個人的には「どうなのそれ?」とは思いますが、いいんです、この場合は。何故って、その年のうちのクラスでは「掃除したい人がする」と、先生の提案から多数決で決められたことなのですから。


しかし、それによって掃除することを選んだ人間を嘲笑するのは、それは違うでしょ、と。だからというわけでもないでしょうが、あの学年は何となくギスギスしていました。
だったら、最初から「掃除は全員がするものだ」と決めてやらせた方が良かったのか、それとも、先生の試みによって「自由とは」について考えを深めることができた生徒がいたのなら、それは教育として意義あるものだったのか…。今でもよく考えます。


ちなみにその先生は、いつでもニコニコしていました。だから言ったじゃん~って文句を言う生徒にも、「まあまあ」とか言って。ああいう先生を好々爺って言うのかなぁ。教育実習で母校へ戻った時には、私なんてすっかり忘れ去られていましたが(後から思い出されて慌てて謝られたけど、きっと毎日一緒に掃除するメンバーだったら、忘れられなかったに違いない・笑)。


それにしても2割か…改めて少ない(笑)。今は私も「わたる」をせっせと掃除する掃除人間と化していますが、やはり学生さんの掃除好きってあんまりいないのかもしれませんね。


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