小さな学習塾「わたる」~子ども達の自立と向き合う~

ADHDやLD、自閉症スペクトラム、アスペルガー等、生来より何らかの学びづらさを持つ子ども達の学習・生活支援を行う小さな学び舎「わたる」。その塾を経営するきつねが日々のことをぽつぽつ呟くブログです。

気持ちを伝えたいのに

私の時代は、英語を勉強するのは中学生からでした。それでも義務教育3年間、高校でまた3年間、さらに大学でも必修で2年は学習し、その後も論文を読んだり書いたりする際、英語とは切っても切れない仲であったため、何だかんだで、残り2年も英語との付き合いは続きました。つまり、学生時代だけで10年は英語に触れていたことになります。


さらに、社会人を経て大学院へ行こうと思いたった際、入試科目に英語がありましたので、「こ、これは……、まずもってイチから勉強しないことには受からない!」という絶対的自信があり、院受験の専門予備校で1年間英語の授業を取り、さらには入学後、修士の2年間も、やはり英語からは逃げられずで、トータル13年間!


まだ終わりません。修士を終えて再び本格的社会人生活に戻るも、院の博士後期課程に居残った私は、未だに英語を読んでいるのです(汗)。休学期間中はほど良くサボっていたので「勉強した」とは胸を張って言えないものの、全く触れないでいるというのも不可能なので、英語との付き合いは続いております。


そこで、普通なら思うはずです。
「そんなに勉強したなら、もう英語ペラペラでしょ?」
「英文を読むのだってスラスラでしょ?」
……私もそう思います。それだけやったら、会話も読みもペラペラになっていないとおかしい!断然おかしい!
そもそも中学・高校の計6年だけでも相当な年数です。話せて当然、書けて当然、ペラペラ読めて当然です!(※因みにリスニングは、当時の学校教育も今ほど力を入れていなかったので、「できて当然」部門から除外します・笑)。


で、結論。
全然ペラペラのスラスラではありません(涙)。
私は今でも英語の論文を読むのがしんどいです。
また少し前の話ですが、たまたま駅で若い女性(東南アジア出身の方)から英語で声をかけられ、気持ちは半パニック状態。ですが、ゆ~っくり話してくれたので、落ち着くと聞きとれます(笑)。で、電車の乗り換えが分からないということを理解。その駅は改札を一回出てちょっと歩かなければ違う線へ行けなかったので、日本に来たばかりという彼女には余計分からず、心細かったことでしょう。
私はその線には用がなかったのですが、彼女をその場所まで道案内し、切符を買うところまで一緒しました。親切からではありません、そこまでの経路とその後、券売機でどうするかを英語で説明するスキルがなかったからです。
しかし彼女は私を親切な人だと思ったらしく、道中、日本にいる知り合いを頼って福祉の勉強をしに来たこと、働きながらで大変だが、自分の国も日本のように豊かな国にしたいから頑張りたいといったことを笑顔で話してくれました。


……めっちゃ良い子!!めっちゃキラキラしている!!!


もうね、別れ際、私はファイティングポースで「頑張れ」のサインを送りましたよ。ファイティングポーズって、彼女に喧嘩を売っているわけじゃないことは、大多数の人には分かって頂けることと思います。
「素晴らしい、これからも頑張ってね!」
そういう意味での、両手「ぐっ!」のポーズです。本当はいろいろ返したかった、でも返せないのです。英語でこの募る気持ちをどう表現していいか分からなかった。
「Do your best」?「Good luck」?…まぁ間違ってはいないけれど、何か違う。
「I hope your success」?うーんこれも…。とにかく咄嗟には、あの時に熱くこみ上げた気持ちにふさわしい言葉はぱっと出てきてくれませんでした。


彼女は改札を通った後も、何度か振り返って笑顔で手を振ってくれたので、何となくお互いに「通じ合った感」があり、私もとても嬉しい気持ちだったのですが…。もどかしい想いも、その後で随分としました。もっと英語がペラペラだったなら…!もっと臆せず自分の言いたいことが言えるスキルがあったなら…!まず、咄嗟に出せる語彙の引き出しが圧倒的に足りなかった。まったく、こんなに何年も勉強していても実践で使えないって、日本の英語教育はどうなっているのか!?←逆ギレ


今はどうなのでしょう。小学校から英語教育が導入され、会話重視(?)の授業内容になって。「使える英語」を「本当に使える」子ども達は増えているのでしょうか?
ただ、私は咄嗟に使えなかったわけですが、個人的に昔の英語教育が全部間違っていたとも言いたくなくて、昔の方が文法からきっちりやってくれていた気もします…。型どおりの挨拶やちょっとした会話なら、今の方が実践で使えるフレーズもたくさん覚えられて良いなぁと思うのですが、反面、本当に向こうの人と深い会話、込み入った話がしたいと思った時に、果たして今の子ども達はそういう英語力を身につけられる教育が成されているのかな?と。そう思うこともあります。海外旅行や、それこそただの道案内だけの会話力だけあればいいというなら別ですけど…。そして、私は文法あれだけやらされたのに、彼女に伝えたいことの半分も伝えられなかったから、そんな胸張って昔の教育の方が英語力はつく!とか言えないのですが(説得力ゼロ・爆)。


ただ、これって英語力だけの問題じゃなかったかもしれない、と思うこともあるのです。
「自分の内から湧き上がってきた、何とも言えない熱い気持ち」を言語化する能力自体が足りていなかったかも、と(笑)。そういう時ってないですか。言葉にならない、でもこの「何か」を何とかして伝えたい。でも、うまくいかない、何てもどかしい!というような…。


特性のある子ども達の中には、その時の状況や自分の気持ちを相手に分かりやすく言語化するのが苦手なタイプの子がいますけど、このコミュニケーションをうまくとれないというもどかしさは、ある意味、私が異国の彼女とうまく仲良く話したかったのにできなかった、悔しい!という気持ちと相通じるところがあるのかな…なんて考えたりしました。
むしろ、相手が同じ日本人なのに、自分の話したことを「分かってもらえた」感が薄いとしたらより辛いでしょう…人によっては、それで対話を諦めてしまうかも。
会話力を磨くことって本当に大事です。「わたる」ではそういうお手伝いも積極的にできたらいいなと思っています。


小さな塾をやっております。興味を持って下さった方は下記のリンクからホームページを見て頂けると嬉しいです。


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